アンカーポイント「百吉トンネル」へ向かうなら、「新」トンネルへ行くのか、「旧」トンネルへ向かうのかをまずははっきり決めましょう! 慈湖と復興とをつなぐ台七線は、今のところ「新旧並存」しています。「新百吉トンネル」は現在は双方向車道として使用され、「旧トンネル」は遊歩道となっています。この二つのトンネルは、半世紀にわたる百吉の変遷を見つめてきたのです。百吉を理解するには、まずこの地区の戦略的な位置に注目してください。旧名を八結という百吉地区は、かつては大溪と角板山を行き来する際に必ず通らなければならない地でした。1944年日本人がここに、通行、防空、非難の機能を兼ね備えたトンネルを建設し、角板山の戦略拠点としました。1957年には土砂崩れが発生し通行止となり、8年後にようやく再開。それが今日の「旧百吉トンネル」なのです。総延長約343m、幅は4.5mで、南側口には当時の省政府主席ー黄杰が揮毫した「百吉トンネル、北段横貫公路」の文字が残っています。後に公道としては不足があることから、双方向通行の「新百吉トンネル」が建設されました。修復後の「旧百吉トンネル」のこれまでとの違いは、鉄筋コンクリート構造であるほか、車両が通行できることです。と言っても、当時は片側通行だけが許されていました。そのため、憲兵がトンネル入り口で交通整理をしなければならなかったのですが、この光景は多くの人にとって懐かしい思い出でしょう。1993年双方向通行が可能な「新百吉トンネル」が開通し、旧トンネルの輸送機能に正式に終止符が打たれました。
二度の封鎖を経た「旧百吉トンネル」は2007年観光遊歩道に生まれ変わりました。内部では日本統治時代に架設されたライトレールが見られます。当時の「トロッコ台車」(「手押車」と別称)は人も貨物も載せられる構造で、自分で速度をコントロールするものでした。現在の「旧百吉トンネル」では、車夫が汗をぬぐいながら貨物を運搬する情景はもう見られませんが、それに代わって旧時代の面影を偲ばせる台車に乗って撮影する観光客が絶えません。「旧トンネル」からは「総督府遊歩道」、「百吉林蔭遊歩道」といった古道にもつながり、小さな旅をひと続きで楽しむこともできます。